プロフィール

吉田武雄プロフィール

【略歴】

昭和39年 松戸菊花会に入会

昭和42年 日比谷公園菊花大会、日本菊花協会入会

昭和46年 日比谷、日本菊花協会理事

昭和49年 日比谷、日本菊花協会審査委員

昭和51年 全日本菊花連盟群馬大田大会に初めて出展

昭和57年 日比谷、日本菊花協会常任理事

昭和59年 全日本菊花連盟審査委員

平成 8年 大阪和泉市(国華園)日本菊花全国大会理事審査員

平成 8年 日比谷、日本菊花協会副理事長、副審査長

平成11年  日比谷、日本菊花協会副会長

【菊花大会入賞一覧】

昭和40年11月 松戸菊花会(切花)高原の雲 優等首席

昭和41年11月 松戸菊花会(盆養)白銀の月 優等首席

昭和44年11月 日比谷公園菊花大会(切花)宝幸藤波 優等首席

昭和45年11月 日比谷公園菊花大会(切花)大芳白波 最優等

昭和45年11月 日比谷公園菊花大会(切花)宝幸藤波 最優等

昭和46年11月 日比谷公園菊花大会(切花)花園の松、武蔵野、優等首席

昭和48年11月 日比谷公園菊花大会(切花)大芳白波 最優等

昭和48年11月 日比谷公園菊花大会(切花)清水の玉 最優等

昭和50年11月 日比谷公園菊花大会 最高賞(三本立盆養)農林大臣賞 白銀の月

昭和61年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 文部大臣賞 国華国菊

昭和62年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一 厚生大臣賞 兼六白菊

昭和63年11月 日比谷公園菊花大会 運輸大臣賞 大芳白波

平成 3年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 精興右近

平成 4年11月 日比谷公園菊花大会 切花 農林大臣賞 精興右近

平成 4年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一 厚生大臣賞 精興右近

平成 4年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 精興右近

平成 5年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 切花日本一 国華満寿

平成 5年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 精興右近

平成 6年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 精興右近

平成 7年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一厚生大臣賞  国華国宝

平成 8年11月 日比谷公園菊花大会 切花 農林大臣賞 精興右近

平成 7年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 精興右近

平成10年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 大臣賞国華光明

平成11年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 国華吉兆

平成10年11月 全日本菊花連盟福岡宗像大会 切花 建設大臣賞 国華由季

平成12年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一 外務大臣賞精興右近

平成13年11月 日比谷公園菊花大会 切花 農林大臣賞 国華吉兆

平成13年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一 法務大臣賞 国華吉兆

平成13年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 国華吉兆

平成13年11月 全日本菊花連盟いわき大会 高松宮妃杯ブルーリボン賞 国華由季

平成14年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 国華由季

平成17年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 文部科学大臣賞 国華吉兆

平成18年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一厚生大臣賞 国華吉兆

平成18年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 国華吉兆

平成19年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一外務大臣賞 国華吉兆

平成19年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 国華吉兆

平成20年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一厚生大臣賞 国華挑戦

平成21年11月 日本菊花全国大会和泉市国華園 単鉢部門日本一法務大臣賞 国華寿杯

平成21年11月 日比谷公園菊花大会 最高 内閣総理大臣賞 国華理想

 

【菊への想い】

中学校に通う道筋に、秋に成ると20鉢位囲いをして展示してあり3年間良く見ました。昭和29年に卒業して野菜作りをやらされ、母(キク)と一緒に仕事をしたのが6ヶ月で、9月19日急性肺炎になり一晩で息を引き取った、これから一生懸命に力になってやりたいと思っていた矢先の出来事でした。父は昭和19年8月にスマトラ沖で戦死し、私と11歳しか違わない叔父が母と無理にいっしょにさせられた、人の話によると成績が良く中学校に行くつもりだったそうで、それが兄が戦死したので兄嫁と無理に一緒にさせられたのですから、何時も機嫌が悪く、よく腹を立てた、煩い祖母はいつも叔父に機嫌を取っていた分、母には辛く当たっていたようで母は何時も涙を浮かべていた。私も子供の頃食べず嫌いが激しく体が弱くよく熱を出し、寝込むと耳が凄く痛くなり耳鼻科に良く通って、母には何時も心配を掛けていた。今左の耳は良く聞こえない。

母(キク)が亡くなって4年後、昭和33年20歳の時キク作りを始めた。その後だんだん熱が入り松戸で一番良く咲かせる方に色々見たり聞いたりして、ある程度見られる菊を作れるようになったので、39年松戸の会に入る、その頃新宿の市場に野菜を持って行ったので帰り、菊作りの名人の家を訪ねて見せてもらい勉強した。野菜作りも一生懸命やっていたのでうるさい義父でしたから気兼ねしながら菊を作っていたのでほとんど夜の手入れなので2~30鉢位しか出来なかったが、菊の中に入ると:辛い事悲しい事:一瞬忘れるのです。平成2年6月妻に先立たれ、9月には義父が亡くなり、途方にくれていたが、菊が私の生きがいを救ってくれた。野菜作りも余り出来なくなったので、本格的に菊作りに打ち込むようになり、沢山の賞も頂けるようになった。平成13年には全日本菊花連盟いわき大会で高松宮妃杯ブルーリボン賞、大阪和泉市国華園、日本菊花大会で三本立単鉢部門日本一位、日比谷公園菊花大会内閣総理大臣賞を獲得し、松戸菊花会に有志の方々を設けて頂き私の挨拶の終わりに*菊作り悲願の道のり40年キクに孝行高松宮妃杯*と書いて参列者に見せた。私の菊花には母の力が後押しているのではと思う時もあります。

吉田武雄